暑い暑い夏は、もうとっくに京都に到着しています。夏は蒸し暑いものだと信じて育ったのですが、どうも京都の夏は、特別に過ごしにくい気候のようです。そう言えば、別の場所で夏を過ごすと、どこに行っても快適な気持ちになれたことを思い出します。
夏は夏らしく、春は春らしく、四季の移ろいを感じていくことは、異常気象の多発する今の状況で、はたしていつまで可能なのでしょうか。年とともに、心もとなくなってきます。でもしかし、夏は夏の行事をするから夏らしく、春は春の行事をするから春らしく、などと考えたくもなります。夏だから夏の行事をするのではなく、夏の行事をするから夏になる、という順序です。そのような意味で、例えば七月の祇園祭は、人間の自然に対する挑戦という面も持っているのではないでしょうか。そして、およそ年中行事というものは、演劇的空間を人間が創出する試みのように思います。例えば大文字の送り火は、京都の町全体を使った壮大な演劇的空間の創出に感じられるのです。
迎え火から送り火までの、お盆のいろいろな儀式をするたびに、死者を招いて時間の惰性を断ち切る、演劇的空間の手ごたえを感じる昨今です。もうすぐお盆がやってきます。